「中途半端な人」にならないために「やらないことを決める」
器用貧乏とは残念な人のこと?!
「器用貧乏」を辞書で調べてみると、「なまじ器用にいろいろのことがこなせるために、かえって大成しないこと」とあります。
実際に貧乏かどうかはわたしにはわかりませんが、器用な人は人から重宝がられるので、当人は自分のやりたいことに徹することがなかなかできないということはたしかにあると思います。
一つのことに抜きんでた能力をもつことが是とされている職業では、いろんなことがそこそこできるというのはかえって害になるのかもしれません。
しかし、学校で子どもに教えるということになると、またちょっと事情が違ってきます。教育ニーズに応じて、自分の専門外であってもさまざま経験や技能が必要になります。知らないより知っていることが多い方がいいに決まっていますし、何をするにもできることが多いに越したことはありません。
研究職にある者を除いて,現場で働く教師はいかに多芸であるか,ということがこれまでも求められてきた気がします。なんにでも興味をもち,新しいことをどんどん取り入れることに価値が置かれてきた気がします。わたし自身も専門の国語以外にたくさんのことを学び,取り組んできました。
それによって,子どもの学びがより豊かなものになっているという事実もたしかにあります。
「なんでも屋」から「専門店」にシフト!
でも、最近は実はこれってやっぱり逆なんじゃないかなと思うようになってきました。
こうやって、学校や教師がいろんなことを抱え込むから、学校がちょっと特殊な世界になっているのではないか、と思えるのです。学校は社会の縮図とはいうものの、本当の意味で縮図になりえないのは、社会と子どもの間に「教師」が入っているからでは、という気がするのです。
これは「よさ」でもあり「悪さ」でもあります。
つまり、下手をすると、何でもそこそこできる人というのは、いろいろな分野における「中途半端な人」になりかねないということです。
教師とはいったい何のプロなのでしょう。
学校ではやらないことを決める、というのが実はとても大事なことなのではないかと思うこの頃なのです。