思考の放棄は「ビミョー」から始まります
「ビミョー」
「別に・・・」
最近、生徒たちと話をしていて、これはやばいと思っていることがあります。(やばい、という言葉の使い方もある意味やばいですが、今回それはおいといて)
それは、こちらの問いかけに対して、「ビミョー」「別に・・・」といった返答で済ませてしまう生徒が実に多いことです。
何がやばいのかというと、それが思考の放棄にほかならないからです。
応えたくもないのに無理に応えさせようとしているということもあるかと思いますが、それだけではないと思っています。
当然のことながら、会話はそこで打ち切り。それ以上の発展は期待できません。
わたしは国語科ですので、この言葉の機微とでもいうべき、まさに「微妙」なものを言葉で表現できたことに対してものすごい喜びを感じるわけですが、この子どもたちはどうやらそうではないようです。
この子たちが使っている「ビミョー(そもそも微妙と漢字で書けるとは思えない)」が本来の意味で使われていればいいのですが、言葉でうまく言い表せないから「微妙」なのであって、そこにはなんとかして言葉で表現しようとする努力がともなってこそ使える言葉なのだという認識はまったくありません。
自分の思いにピッタリとくる言葉を探す努力もせず、適当に応えておけばいいや、あいまいにしておけばいいや、といった思いが「ビミョー」や「別に」という言葉を選択させているのです。
これをこのまま許していくと、思考自体を失いかねません。
本当にやばいです。
考えることをやめてしまったらその子の明るい未来は期待できません。自ら考え自ら行動する主体的な子どもなんて育ちようもありません。
なんとかして食い止めようと四苦八苦していますが、わたし一人の力ではどうにもこうにもといった感じなのです。