今からココから子どもから

一教師の日常をこそっと語りたく・・・

子どもの自主性を育てる?それとも主体性を育てる?

自主性と主体性の違いは何?

という質問に答えられるでしょうか?

この2つの言葉には大きな違いがあります。

その違いを知っているのと知らないのでは指導に大きな違いが出ます。ここでは「自主性」と「主体性」の言葉をそれぞれ説明してから、どこが違うのかを述べます。

「自主性」とは

他人からの干渉や保護を受けず、独立してことを行うこと。もう少し噛み砕いて言うと、自主性は単純に「やるべきこと」は明確になっていて、その行動を人に言われる前に率先して自らやることです。よく仕事をしていると言われる「自主的に動け」という言葉。これは言い換えてしまうと「同じやるなら、やれといわれてからやるのでなく、自分でやろうと思ってやれ」ということになります。

具体的な例を出すと、挨拶をする際に、自主的な人は周囲から言われなくても、率先して元気よく挨拶することができるわけです。

「主体性」とは

主体性とは、様々な状況下においても自分の意志や判断で行動するということ。つまり「主体性」は、何をやるかは決まっていない状況でも自分で考えて、判断し行動するということになります。主体的な人とは「目的は何かを徹底して明確にし、それを満たすために何をするかを自分で考え、リスクを承知で行動すること」ができる人。
さらに主体的な人は、挨拶をする際に、まず目的を考えます。そして、その目的が「職場環境をよくすること」であると定義したら、挨拶以外に朝礼をしようと企画して実行することができます。
「主体性をもって行動する」ということは、自分で状況を判断して、自らの責任で最も効果的な行動をとるということです。

この2つの言葉の違い

「主体性」があれば、やるべきことをやるだけにとどまらず、場合によっては、今までやってきたことが効果的では無いからやめると判断することも出来るのです。「自主性」はやるべき事をいかに人に言われる前にやるかということなので、自分で物事を考える習慣が付かない。反射的に行動をしてしまいがちになります。
この2つの言葉の大きな違いは自分の頭で物事を考えるか、考えないかにあります。「自主性」は自分の頭で考えないが「主体性」は自分の頭で考えなければなりません。また「主体性」は、自分がとった行動の結果について、自分が責任を負うという要素が含まれことになります。
 

今の学校教育の多くは「自主性」を育てることに注力してしまっていると思います。人と出会った際は、必ず自分から挨拶をするように指示される。また「ただ待っているのではなく、自分から探せ」など言われだけです。しかし、自分の行動に対して責任を負うことはほとんどありません。
つまり学校では「主体性」が身に付いてこない。それは責任を負わせるということを学校はしてこなかったからなのです。

まずはやらせてみましょう!

まずは「こうやりなさい!」とか、「何やってるの、駄目でしょ!」「こうやればいいの!」などと言わないことです。子どもが動けないのなら、こちら側からヒントを与えるなど考えさせ、動いてみる、この流れを作ってあげましょう。もし失敗したのなら、「それは違う!」ではなく、何が違うのか、それによってどんなマイナスが生まれるのか、を指導し主体的に動ける範囲を広げてあげましょう。

それが、主体性のある人の行動なのだと思います。これらの違いを踏まえた上で指導するとしないとでは結果に大きな差が生まれ ます。「主体性」を伸ばしていきたいのであれば、まずはやらせてあげることが大事で、自主性を伸ばす場合は「やるべき事」を明確にしてあげることが大事。

どちらが良い悪いということではないが、この2つの違いを踏まえて指導してみてはいかがでしょうか。

 

 

結果として勝利をおさめるのであって、それが目的なのではない

中学生の地域リーグ戦を戦っていると、時に思わぬ大差で勝利してしまうことがある。それこそ二桁得点というありえない点差で。今日はまさにそんなゲーム。

競技サッカーの勝ち負けには相手がある。
100%の力を出し幸運に恵まれた価値の高い勝利はある。
しかし、評価に値しない、全力を尽くさない勝ち、次につながらない結果のみの勝利もある。
目の前の勝利を拾ったが、この先の多くを失ってしまうことさえある。
優れた対戦相手に恵まれて、敗者になることもある。

挑戦心にあふれた価値の高い負け、転機を生む負けがあるんだ。
敗北と引き替えに今後の挑戦の道をはっきりと浮かび上がらす試合は必ず存在する。

サッカー特有と言っていい引き分けにも同じように意味がある。
特に育成年代のチームは「その結果」に一喜一憂しては成り立たない。
誤解を恐れず言えば、選手のサッカーをやる目的がずれているなら、そのチームの今の勝利は負の意味を持つことさえある。

ひたむきに頑張ってもすぐには叶わないことが世の常だ。
「上には上がいる」ことの認知と、敗北をちゃんと受け入れる器をもつこと、対戦相手やレフリー、自分を支えてくれている人たちに対する尊敬の気持ち。
それが大切なんだ。
勝利が叶って勘違いするのは、目的が不純であるということ。
目的を見失うな。
こだわった勝負・目標を可能にするために、自覚的練習や生活などの準備をする中で身につくもの。
それこそ長い人生を生きようとする君が見つめるべき本当の目的だ。
勝利などほんの一瞬のできごとにすぎない。



「感謝」の反対は何?

この文章を読むと切なくなると同時に大切なことに気づかせてくれる

ビルは空高くなったが
人の気は短くなり
高速道路は広くなったが
視野は狭くなり
お金を使ってはいるが
得る物は少なく
たくさん物を買っているが
楽しみは少なくなっている

家は大きくなったが
家庭は小さくなり
より便利になったが
時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても
センスはなく
知識は増えたが
決断することは少ない
専門家は大勢いるが
問題は増えている
薬も増えたが
健康状態は悪くなっている
飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し
笑うことは少なく
猛スピードで運転し
すぐ怒り
夜更かしをしすぎて
起きたときは疲れすぎている
読むことは稀で
テレビは長く見るが
祈ることはとても稀である
持ち物は増えているが
自分の価値は下がっている
喋りすぎるが
愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる
生計のたてかたは学んだが
人生を学んではいない
長生きするようになったが
長らく今を生きていない
月まで行き来できるのに
近所同士の争いは絶えない
世界は支配したが
内世界はどうなのか
前より大きい規模のことはなしえたが
より良いことはなしえていない
空気を浄化し
魂を汚し
原子核を分裂させられるが
偏見は取り去ることができない
急ぐことは学んだが
待つことは覚えず
計画は増えたが
成し遂げられていない
たくさん書いているが
学びはせず
情報を手に入れ
多くのコンピューターを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている
ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが
人格は小さく
利益に没頭し
人間関係は軽薄になっている
世界平和の時代と言われるのに
家族の争いはたえず
レジャーは増えても
楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても
栄養は少ない
夫婦でかせいでも
離婚も増え
家は良くなったが
家庭は壊れている

忘れないでほしい
愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい
すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることができるこの唯一の宝物には
1円たりともかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて
あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り
その時間を慈しむことを
愛し
話し
あなたの心の中にある
かけがえのない思いを
分かち合おう
人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない
どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ
ジョージ・カーリン

「感謝」の反対は、「当たり前」だそうです。

 

 

誠とは、言ったことを成すこと

熱意と車の両輪をなすもの、それが誠意である。

人間、情熱だけで突っ走っても、それなりに上手くいくものである。

しかしそれはあくまでも一時期である。

人間としての誠実さを欠くと、必ずどこかで崩れる。

歪んだ結果しか手にできない人生になってしまう。

「誠は扇の要」という言葉がある。

扇は要(かなめ)を外せばバラバラになってしまう。

たとえ、どんな才能、才覚、情熱、があっても、
どんなに運動能力に優れ、頭の回転が速くとも、心が熱かろうが、
誠実という要がなかったら、その人生は真の結実に至ることはできない。

夢を諦め、歪めることになる。

人間から誠というものをとってしまったら
いくら徹しても何の意味もない。

言ったことを成す。それが「誠」

知ったふりは愚かさの証明

知ったふりは愚かさの証明で、
知らないふりは賢さの証明だ。
少ない言葉に深い意味を込め、
後は無知を装うくらいが良い。
喉が渇く前に飲まないように、
聞く耳を持たぬ相手に語らず、
無駄な論争を避けるためにも、
対話の相手は選んだ方が良い。

 

なんとなく相手の奥が透けて見えてしまうときってありますよね。

しかも上司だったりして。

皆さんはどうしてます?そんなとき。

 

 

非常識なことをするためには、 まず常識を知らなきゃいけないんだよ

非常識なことをするためには、
まず常識を知らなきゃいけないんだよ。
お笑いみたいなものでも、
常識を知らないと本当のツボというものがわからない。
常識は基本線で、
お笑いはその常識をひっくり返すところで、
コントとして成り立っている。
だから笑えるワケよ。
お笑いに限らず、
常識をバカにする奴に、
常識を超えたことは絶対にできない。
志村けん

 

さぁ、明日から新年度。

自分はいったいどれだけ新しいことにチャレンジできるだろうか。

すでに常識はわきまえたはず。

常識を超えろ!

一歩前へ!

 

生活が試合に出る

「生活が試合に出る」と多くの人が語る。
その通りだと思う。
目の前の勝ち負けだけの為に特別なことをやっても、
それは日常の濃さにはかなわない。
目先の手練手管は、彼らの未来にマイナスだ。
結果を求めず積み重ねる人の24時間の努力の継続。
それが、真っ当な魅力溢れる人間をつくる。
特別な手練はなにも加えない。
誰よりも練習するのは前提。
他人より早く起きる。
他人よりたくさん飯を食う。
他人より真剣に授業を受ける。
時に怠けがちな、
やるべきことをやりきり、そして寝る。
そういう生活の瞬間瞬間こそがすべてだ。
授業とか掃除とか自分の衣類の洗濯とか、いつもの自主練習や基礎練習とか、
大切なそういうこと飛ばして勝ちたいなら、勝たない方がいいし、まあ勝てはしないだろう。
大切なことをやりもしないで、策したり、妬んだり、脅したり、威張ったりすることは、薄っぺらい卑しい輩の生き方だ。